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【探検予備隊】短編小説『全てはここから』

  • むるむる探検予備隊
  • 2012.01.24

どーも、こんにちは☆

むるむる探検隊3号、俳句王です。

この度は恐れ多くも小説を書かせて頂きました!

夢をテーマに書いたつもりが、

いつの間にやらシスコンとブラコンの兄妹喧嘩話になりました。

どういうことだ\(^o^)/。

予定していた日付もぶっちぎりに破り、

ようやく本日掲載という形になりました。

むるむるご担当者様、大変ご迷惑をお掛け致しましたっ!

原稿用紙30枚に無理やり詰め込んだ短編作品ですので、

窮屈な場面や急展開な場面がちらほらあると思いますが、

読んでくれると幸いです。

『全てはここから』

玄関から一番遠い場所に位置する十二畳一間。一人部屋にしてはなかなか広いこの空間が私のすべてになっていた。衣装棚にベッドと使い古した机だけという、かなり殺風景なものだが、私以外決して入ることの出来ない私だけの城だった。

 そう“だった”はずなのだ。つい一分前までは。

「さくら」

 久しく聞いていなかった懐かしい声に、私は酷く緩慢な動作で顔を上げる。外側からめいいっぱい開けられたドアの向こうに、侵入者である一人の男が立っていた。約二年ぶりに見る男の名が無意識に口をつく。

「葵お兄ちゃん……」

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋を見渡しながら、葵お兄ちゃんが無遠慮に部屋の中へと入って来る。床一面に放り投げだされたゴミを器用に避けて窓へと辿り着くと、躊躇なくカーテンを開いた。

 強い日差しと共にむわっと籠った匂いが立ち込める。部屋中に散漫する埃がきらきらと光を纏っている様子に思わずのけ反りながら目を細めた。

「相変わらず片付けが下手だな」

 明かりが差したことによってより鮮明になった部屋の散らかり具合に、呆れたように葵お兄ちゃんが鼻で笑う。

「私の部屋なんだから私の勝手でしょ。いきなり帰って来れるなんてよっぽど今の仕事暇なんだね」

「まぁ、中学生にもなって引きこもりになる妹の様子を見に、わざわざ都心から帰って来れる程度には」

 嫌味な態度に不機嫌さを隠すことなく冷たく返した所でこたえる相手ではない。遠慮も配慮もあったもんじゃない態度に寄せた眉の皺が更に濃くなる。

「葵お兄ちゃんっていつもこんな感じだよね。かなり無神経」

「そこが俺のチャームポイントでもあるからね。で、何が気に食わなかったんだ?」

「別に……ただ単に面倒くさくなってちょっとサボっただけ。来週にはちゃんと学校に行く。それでいいでしょ」

 だからもう用はないだろうと言葉の端で訴えるが、やはりそんな事に構う兄ではないことは十分に分かっている。案の定、葵お兄ちゃんは窓に寄りかかったまま動く気配はない。想像通りの展開に脱力して溜息を吐くことしか出来なかった。

 

  私と葵お兄ちゃんは十歳も年の離れた兄妹だ。間には誰もいないので、親は一緒なのかと訊かれたりしたことも少なくはない。冗談交じりに言われてきたが、多分何割かは本当に疑問に思って投げかけていて、そして多少の揶揄も入っていたはずだ。

 何でも出来る兄と、何も出来ない妹。

 そんな良くある位置づけだったら、また違った関係になっていたのかもしれない。けれど喜ぶことなのか悲しむことなのか、私は何も出来ない妹ではなかった。

 学校は勿論、進学校を目指す人達が集まる有名塾での成績だって悪くはない。勉強面以外でも正直そこそこ以上の評価は常に受けていた。……ある枕詞が必ず付いていたが。

――さすが葵の妹ね。

――やっぱり葵先輩の妹は違うな―。

――葵さんの妹なの? 道理でね。

葵の妹。

  必ずと言っていいほどそれは私の評価に付いてまわった。年が離れているにも関わらず殆どの人が私達兄妹を知っていたのは、小中高一貫性の学校だったことも原因の一つに挙がるが、単純な理由としてやたら葵お兄ちゃんが目立っていたことが主だった。

 学力はトップクラスで部活動では全国大会出場は当たり前。おまけにやることが派手なのでいつも皆の視線を集めていた。幼いころはそんな兄が自慢でもあり、ひっそりと尊敬もしていたが、大きくになるにつれその存在はただ疎ましく重荷に感じるようになっていた。

 だから、二年前就職の為にこの家を出ていくと聞いたときは心底ほっとした。これで比べられることはない。そうなったらきっと私はまたきちんと葵お兄ちゃんを好きになれる――。

そんな甘い期待を抱いたのは一瞬だった。葵お兄ちゃんはいないのに、葵お兄ちゃんの影は常に私に付いて回った。好きになるどころか、さらにその想いを加速させただけだった。

「引き籠っている間絵でも描いていたの?」

 かけられた言葉に意識を葵お兄ちゃんに戻す。葵お兄ちゃんは足元のゴミに――引き籠っていた間に描き溜めた私の絵に視線を落としていた。適当な用紙に描いた上、全てぐしゃぐしゃに丸めて放置していたのにも関わらずそれに絵が描かれていると言い当てられたことに驚き、言葉を失った。

 無言を肯定と捉えたのか、腕組をして葵お兄ちゃんが溜息を吐く。そのまま畳みかけるように続いた言葉に、一気に頬が熱を持った。

「変わらないな、さくらのそれ。いつも通り嫌な事があったから絵に逃げたってことか」

“逃げた”

 容赦のない一言は今の状況を最も的確に表したものだった。飾り気のない随分あっさりとした物言いに怖気づいた自分が居たのに、葵お兄ちゃんと向き合っていた私の口が勝手に動いた。

「何も知らないくせに勝手な事言わないで!」

 恥ずかしさなのか怒りなのか悲しみなのか。自分でもよく分らない感情が渦巻いてどうしようもなかった。声を荒げる私に向けられる視線はどこまでも静かで、淡々と土足で人の領域に踏み込むその神経が恐ろしかった。

「私がいつもどんな思いでいたと思ってんの! 何をしても流石葵の妹だとか言われて皆が褒めてくれるけど、そこに私個人を認めるものは一切入っていないの! 出来て当たり前、高い評価を受けて当たり前、私が出来ることは葵お兄ちゃんの妹だから当たり前なの! そんなふざけた評価、受けられるわけないでしょ!」

放課後にこっそりと描いていた風景画をたまたま同級生に見られてしまった。称賛の言葉の後に続いたのは――やはりいつもと同じものだった。

 褒められているとは頭では分かっていた。悪気が無いのも分かっていた。分かっていたのにそれを巧く噛み砕く事が出来なかった

 自分でも呆れるくらいしょうもない理由だと思う。そんな事で引き籠るなんて馬鹿なんじゃないかと言われても何も返せない。

 けど、他の誰でもない、葵お兄ちゃんにだけは言われたくなかった。

「葵お兄ちゃんの妹ってだけでどれだけ私が面倒な思いをしてきたと思っているの! 葵

お兄ちゃんなんて邪魔なだけだよ! 葵お兄ちゃんなんて大キラ――っ」

「……言いたいことはそれだけか」

 今までに聞いたことのない低い声色だった。威圧的な言葉に興奮が一気に冷めて咄嗟に口を噤む。高ぶっていた心音がやけに大きく響いて聞こえた。

今私は何て言った……?

「さくら」

 ため息混じりに名前を呼ばれ肩が撥ね上がる。顔が上げられず、ただただ深く俯いてじっと自身のつま先を見つめる。足先はじょじょにぼんやりと形を崩していき、零れる小さな嗚咽を飲み込んだら喉の奥が妙な音を立てた。

「さくら。怒ってないから顔上げて」

 もう一度私の名前を呼んだ声は、普段の馴染みのある声だった。その声に引っ張られるように、おずおずと顔を上げる。そこにいたのはいつもどこか余裕な態度の普段通りの葵お兄ちゃんだった。

「これ覚えているか?」

 そう言って突然葵お兄ちゃんが自身の財布から取り出したのは少し変色した紙だった。四つ折りにされていたそれがそっと開かれていびつな形をした、けれど太く立派な茎と鮮やかな色合の花弁を纏った向日葵がそこに現れた。

「これ……私が描いた絵……」

 小さな頃に描いた絵だったが、良く覚えていた。構図やバランスも今とは比べ物にならないほどめちゃくちゃで、大分稚拙なものだが当時はかなりの自信作だった。

「…………何で、まだ持ってるのぉー……」

 もう抑えることは無理だった。次から次へと溢れる涙が熱を持つ頬の上へと滑り落ちる。ついさっき飲み込んだ嗚咽もそのままに、馬鹿みたいに大きな声で泣きじゃくる。泣くこと自体久しぶり過ぎて、どう涙を止めたら良いのか分からなかった。

「もっ……、ぜ、全部あっ、葵お兄ちゃんがっ、悪い、んだからねっ!」

「うん」

「む、無駄に何でもっ出来るのが、いけ、ないの!」

「うん」

「だ、だからっ、私捻くれちゃって……ひ、引き籠るとかっ、馬鹿なことしちゃうしっ」

「うん、そうだね」

 自分でも何が言いたいのか分からない程要領の得ない言い分にただ静かに葵お兄ちゃんが頷く。それだけのことが何だか嬉しくてしゃっくりを上げながら私はくどくどと喋り始めた。

絵の勉強がしたいこと。将来絵を描く仕事に就きたいこと。もっと上手くなりたいこと。私自身の力だと認めて欲しいこと。

 ぐだぐだと私が話し終えると、嗚咽だけが零れるだけでとても静かだった。けれどそれは居心地の悪いものではなく、どこか懐かしくもあり何だかどこかで感じたことのあるものだった。

袖口で鼻を啜る。にょろんとしたものが出てきたが、見なかったことにして隠すようにそこを折り曲げる。「汚ないなー」と呆れた様な声が聞こえてきたが、気のせいだと思うことにして無視を決め込む。

どこか緩んだ空気の中、葵お兄ちゃんがぼそりと呟いた。

「……投資する」

「へ……?」

 不意に紡がれた言葉の意味が分からずに、涙と鼻水でひどく間抜けなものになっているであろう顔を向ける。葵お兄ちゃんは私の視線を受け止めてもう一度繰り返した。

「さくらの夢が叶うように俺がさくらの未来に投資する。だから、自分のやりたい事やってみろ」

 突然の申し出にぽけっと葵お兄ちゃんを見つめる。真面目くさった顔をしているのでどうやらからかった訳でもないらしい。

 そうだった。葵お兄ちゃんはこんな感じだった。それが分かる程私は葵お兄ちゃんのことを思い出していた。大きくて、なんやかんやと頼りになって、意地悪だけどときどき優しくて、良く甘えていた存在だった。

……ごめんなさい。

 

 吐息交じりに小さく呟く。「いいよ」ちょっと気取った返事はやっぱり私の良く知る葵お兄ちゃんのものだった。

 

               ***

 

 

「ほら、水」

「ありがとう……」

だるい身体をベットから起こして座ると、リビングから持って来てくれた水を受け取り一気に飲み干す。冷えた水は焼き付いた喉に心地よく、なんだかとても甘く感じられた。

喉が渇き過ぎて頭がぼーっとして来た頃、ようやく私は泣き止んだ。時間の感覚がなくなっていたので泣いていたのは5分だけかも知れないし、もしかしたら一時間以上かも知れなかった。その間私の理不尽な八つ当たりにも文句ひとつ言わずに、葵お兄ちゃんは黙ってただ傍に居た。

水を飲んで一息ついた所で、葵お兄ちゃんが私の隣に座る。久しぶりの距離感が何だか妙に気恥しい。

「あ、葵お兄ちゃんは私と同じぐらいの時に夢とかあった?」

誤魔化す為に適当な話題をふると、「夢ねぇ」と呟いたきり葵お兄ちゃんは黙ってしまった。

「言いたくないなら別に――」

「……将来の夢とか一度も持った事ないんだよね」

聞いてはいけないことだったのかと口を開くと、それを遮るように葵お兄ちゃんが放った言葉に目を瞠る。何でも器用にやってのける葵お兄ちゃんが夢を一度も持ったことがないなんて、今の今まで知らなかった。

「正直、将来こうなりたいとか、この職業に就いてみたいとか一度も考えたことないんだよな。さくらみたいに熱中することや趣味もないから、自分でも本当につまんない奴だなって思う」

 ベットに後ろ手を付いて、葵お兄ちゃんが何かを探すように天井を見上げる。それに倣って顎を上げると、そこに広がるのはなんてことはない見慣れた天井だ。

「まぁ、そんな感じで味気のない人生を歩んで来たわけ。夢がないって結構キツイもんなんだよね、何か全部どうでもよくなっていって……丁度今のさくらぐらいの時が一番危なかったかな。思春期特有の大分突飛で斜めな方向に思考が傾いてた」

 ゆっくりと語られる葵お兄ちゃんの話に、どこか頭の片隅に引っかかるものがあった。ふと気が付いて、先程見せられた私の昔の絵に手を伸ばす。曖昧な記憶を頼りに紙を裏返すと、右下に幼い字で日付が記載されていた。書かれた日付は――今聞いた話と同時期だった。

 驚いて葵お兄ちゃんを見ると、視線をこちらに戻していたらしく真っ直ぐにぶつかった。どこか苦笑交じりに葵お兄ちゃんが小さく頷く。

「うん。この絵をさくらから貰ったのは丁度そんな時。『これあげるから元気出して。葵お兄ちゃんの仲間だよ』って言われてさ。誰から聞いたのか分からないけど、多分漢字のこと言っていたんだと思う。……あまりにタイムリーなプレゼントだったから、結構衝撃だった。それと同時に俺の進む道が決まった」

 私のあげた気まぐれで描いた絵がそんなに大きな影響を与えたのかと、今更になって慄く。そこから今現在葵お兄ちゃんが働く職種に繋がったのかと思っていたら、続いた言葉はとんでもないものだった。

「向日葵の花言葉は沢山あるけど、その中の一つに“憧れ”って意味があるんだ。絵を貰ったときに直ぐに思いついた。さくらにとって憧れの存在でいよう、それを俺の目標にしようって」

 懐かしそうに目を細める葵お兄ちゃんを真っ直ぐに見ることが出来ずに、足下に視線を落とす。隣から聞こえる小さな笑い声に胃がぎゅっと縮まる思いだった。

さっき私が散々理不尽な文句を投げつけていた時に返ってきた冷たい声よりも――遥かに重い。

「そこからかな、夢がなくてもいいやって思い始めたのは。とにかく、さくらに恥ずかしくないようにやっていこうと思った」

 あまりに真っ直ぐな言葉に、取り繕うことが出来なかった。見せられるまで渡したことすら忘れていたのだ。それにも関わらずあまりにも大それた意味に取られたことに、渇いた喉に無理矢理唾液を飲み下して、早口に告げる。

「わ、私は別にそんなつもりで描いたわけじゃ……」

「確かにさくらは意味なんて知らずに渡した。でも、それでも俺はその絵に救われたんだ。他の誰でもない、さくらが描いた絵だからもう少し頑張ってみようと思った」

 こちらの気持ちを察したのか、力強い口調だった。

長年抱いていた突かれたら痛い微妙な部分に触れられて、私が抱いた感情は怒りや嬉しさなんてものではなく、ただただ純粋な感動だった。

手にしていた向日葵の絵を指で撫でる。紙を前に楽しそうに絵を描く幼い頃の自分が見えた気がした。私は多分この時から何も変わってはいない。

感慨にふけっていた私を拾い上げたのは小さな謝罪だった。

「あー、あとさ、さっき逃げたとか言ったけど……ごめん。あれ本気で言ったわけじゃないから」

 ばつが悪そうに素っ気なく言われた謝罪に顔を上げて首を振る。

 今なら葵お兄ちゃんの言いたかったことを、きちんと理解することが出来た。もしかしたら、葵お兄ちゃんは私のことを羨ましく思ってくれたのかもしれない。自意識が過分に入っているかも知れないが。

「それでだな、まぁお詫びの印にというか何というか……」

 妙に歯切れの悪い言い方に眉を顰めると、葵お兄ちゃんはわざとらしい咳払いをしてもう一つ紙を差し出した。こちらはどこも変色していなかった。

「これ、やるよ。俺が描いた絵だけど」

 良く分らないまま紙を受け取り、広げて見る。そこに描かれていたのは何の変哲もないただの……おそらく木だった。

「何この絵? 木……だよね?」

「一応木ではあるけど、これ山桜。……のつもり」

「山桜?」

 なんとなくだが幹のようなものが描かれているのは分かった。葉っぱのつもりなのか、幹の上に描かれたモクモクとした形の中に豚の蹄のようなものがいくつも混じっていて、そのせいでどこか騒がしい印象を受ける。

 というか、この絵ものすごく……。

「……笑うな」

「ご、ごめっ……だ、だってこれヒドッ」

 器用だと思っていた葵お兄ちゃんの意外な美的感覚を目の前に突き出されると、笑いを堪えるのはもう無理だった。ふへへっとお世辞にも可愛いと言えない私のコンプレックスでもある笑い声が小さく零れる。

 憮然とした葵お兄ちゃんが、可笑しくて私の笑い声はどんどん大きくなっていった。

「自分なりに一生懸命描いた絵で笑われるのは微妙な所だけど、まぁ、元気が出たみたいで良かったですよ」

 言葉の端端に感じる棘に悪いとは思うが、一度ツボに入るとそこから抜け出すのはなかなかに難しい。堪えようと悶える私に葵お兄ちゃんは呆れを顔に浮かべていると思ったが、そうでもなかった。ちらりと視線をこちらに寄越して、薄く笑う。

「なー、山桜の花言葉知ってるか?」

 意味深な表情と唐突な話題転換に、一拍置いて私は素直に首を横に振る。久しぶりに見る表情の癖だったが、どんな意図を含んでいるのかすぐに分かった。

「貴方に微笑む――。これが山桜の花言葉」

 優しく頭に手が置かれ、その大きな手でくしゃりと少し乱暴に撫でられる。予想通りの葵お兄ちゃんの反応に笑おうと開けた口から洩れたのは小さな嗚咽だった。

「……なんでまた泣くかな」

「あ、葵お兄ちゃんがっ、クサいこと、するっから、でしょ!」

 一度視線を寄越して少しだけ口角を上げる。私を驚かそうとするときに葵お兄ちゃんが良くする顔だった。葵お兄ちゃんが教えてくれる色々なことは、初めて知ることや意外なことが多く、昔から話を聞くのは大好きだった。面白い話をするときはこの表情になると気が付くと、ちょっと得意げな笑みを見るたびに心を躍らせながら耳を傾けた。

 今だってそうだ。浮かべた笑みに内心わくわくしながら居住まいを正して葵お兄ちゃんの言葉を待った。けど得意げに投げられた言葉は私の想像を斜め上にいくものだった。

「も、やだー。寒すぎるっ!」

 しゃっくりを上げながら隣の背中を力任せに叩く。「イテッ」と本気で痛そうな声を出して逃げるようにベットから立ち上がる葵お兄ちゃんが可笑しくて、泣きながら私は笑う。

 忙しない私を葵お兄ちゃんは訝しげに睨んでいたが、不意に相好を崩して一緒になって笑う。ひとしきり笑声が辺りに響いて何度も何度も弾ける。この部屋で一人になってからはなかったことだった。

「あー、そうだ。投資の件だけど」

 ふと思い出したように葵お兄ちゃんが俯いていた顔を上げる。そして笑顔のまま天気予報の話しでもするような軽い口調で言い放った。

「さくらに投資する金額だけど、今のところは100円だから」

 あまりにさらりと言われたので、始めは何を言われたのか理解できなかった。

 言われたことを反芻させて、しばしの間隙のあと、

「えぇー! なんで!!」

 あんまりな言葉に思わず声が尖る。そんな私の態度に葵お兄ちゃんがわざとらしい溜息を吐く。

「投資ってのは、将来性を考えて行うものだろ。高リターンを期待して自分の金を出す価値があるかどうか判断する。見誤ることなんてことがあったらシャレにならないからな」

 全くの正論なだけにぐっと詰まるが、正論過ぎて逆に反感がむくりと頭を擡げる。

「で、でも、いくらなんでも100円なんて学校どころか飲み物一本も買えな――」

「そんなの自分の価値を上げれば良いだけの話だ」

 言いきる前にびしりと厳しい目つきで返され、今度こそ何も返せなくなる。ずっと葵お兄ちゃんの背中を追って過ごしてきた。一身に追いかけていたのにその差は離れるばかりで、ついには諦めて引き籠るという非生産的な行動を取った自分だ。そんな自分の価値を上げろなんて言われても何も思いつかない。頑張ろうと息込んだ手前、余計に自分の駄目さが自覚できて、本当に嫌気がさす。

「さくら」

 あからさまに元気をなくした私に、先程より幾分声を和らげて葵お兄ちゃんが名前を呼ぶ。ドアの前に立つその表情は――あの顔だ。

「ここで一つ提案がございます。このドアを潜って少し遅い朝食をご家族で召し上がる。それだけで貴方様の価値は数倍にも跳ねあがると思いますが、いかがなさいますか?」

 丁寧な物腰だが、断られるとは微塵も思っていない表情だ。何もかも見透かしたような態度に再び反抗心が起き上がり、素直にベットから離れることが出来ずにむっつりと押し黙る。そんな私に葵お兄ちゃんが溜息を吐いてゆっくり歩み寄った。近くなる距離に身体が強張る。

「母さんが凄い心配してる。朝ご飯見たら多分驚くぞ。誕生日会より豪華なもの作ってた。全部さくらの好きなものだった」

 呆れるわけでもなく、声を荒げることなく葵お兄ちゃんが静かに告げる。

「さくらが引き籠っているって連絡は親父から来たけど、支離滅裂で何言っているか殆ど分からなかった。あの理路整然とした親父がだぞ? あれ完璧にまいってたね。どうしてやったら良いのかって必死で訊いてきた」

 膝に添えていた手を強く握りしめる。震えないようにするのが精いっぱいで、口を開く余裕なんてどこにもなかった。

「で、連絡を受けた俺は月末前にも関わらず、無理矢理有給をもぎ取ってここにいるってわけ」

 皆心配してるんだよ、分かれよ。

 最後は呟くような小さな声だったが、きちんと届いた。

 乱暴に目元を拭って大きく息を吸い込む。喉元から迫りくるものを空気の塊を飲み込んでやり過ごした。

「…………オムライスあった?」

「あったよ。ケチャップで何か描いているみたいだったけど、何描いているのか全く分からなかった。俺の美的センスは絶対母さんから来てるな」

「そっか。じゃあ私はお父さんに似たのかなー」

 勢いを付けてベットから立ち上がる。もう膝は震えていなかった。葵お兄ちゃんの方を振り向いて、せいぜい意地悪く笑って見せる。

「私への出資金、たっぷりと準備してよね。もともと私はやれば出来る子なんだから、あっという間に価値なんて上がっちゃうよ?」

「やれば出来るのは認めてやらなくもない。ま、俺はやらなくても出来る子だけど」

「……本当に無神経だよね。もう、邪魔だから早く歩いて」

 軽口を叩きながらドアへと向かう。目の前の背中が先にドアを潜るのを確認した後、一つ小さな深呼吸をする。取りあえずご飯を食べて、それからやるべきことを考えてみよう。全てはここからだ。

葵お兄ちゃんを追いかけるように、続けて私も部屋から飛び出した。

                                  了